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2007.11.03

"『Tea with Elisabeth』出版記念Ken Ross写真展"に寄せて

 今日(2007.11.3)、六本木の国際文化会館で行われた標記の写真展に行ってきました。"Elizabeth"とは世界的ベストセラー『死ぬ瞬間』(鈴木晶訳、1998-1999読売新聞社刊行)等で有名な精神科医エリザベス・キューブラー=ロス博士(1926-2004)のことで、死の受容のプロセスに着目することや、愛するものを亡くした後の悲哀(Grief)やそれを癒す悲哀の仕事(Grief work)にの重要性について最初に触れた方です。後の医療者たちに決定的な影響を与え続けている方だと言えましょう。『死ぬ瞬間』は随分昔に千葉敦子さんの本や柳田邦男さんの一連の医療ルポを夢中になって読んでいた頃に出会った本で、前日に偶然新聞で目に入った広告記事に引かれて六本木まで足を運んだというわけです。

 この写真展は一日限りのものなのですが、中ではエリザベス博士のご子息であるKenさんが世界各地で撮った写真や、エリザベス博士の少女時代からの物語のビデオがあり、そこではスタッフの皆さんの働きもあって素敵なひと時を過ごすことができました。また、11月13日に発売予定だという『エリザベス・キューブラー・ロスの思い出(Tea with Elisabeth)』(麻布小寅堂刊行)が先行販売されていたので、早速手にとってみました。博士との思い出を、親しかった世界中の50人が綴った『Tea with Elisabeth』の日本語版だとのことで、米国オリジナル版に先駆けての出版決定なのだそうです。紐解いてみると、死に直面した人たちに真摯に寄り添った博士の人柄がその人たちの筆からより明らかになっているのだということが確認できました。ロス博士の一連の活動は、私たちに再び「生きるとは」ということを問いかけているのだろうと思います。

 六本木を後にしながら思い返したことがあります。図書館には、例えばキューブラー=ロス博士の一連の『死ぬ瞬間』関係の著作など、それぞれの著者の方々が真摯に活動されたところから生まれた本があります。そして、キューブラー=ロス博士はもはやこの世にはいらっしゃいませんが、私たちは図書館に置いてあるそれらの本を通して今でも彼女の活動の一端に触れることができます。そして、図書館には「知りたい」と願う利用者が訪れ、例えば『死ぬ瞬間』を手に取ったりなどします。利用者が活動を続けていくために必要な資料を探しに図書館に来るという物語と、著者の方々の活動の物語。ならば私たち司書はどうすべきか。

 答えは一概では言えないでしょうが、きっとこのようになるのでしょう。利用者の「読みたい」をお手伝いするプロとしての司書。司書たちが活動を積み重ねてきて、今後とも積み重ね続けていくその物語の中で、利用者の思いにアンテナをしっかりと張り、著者の思いに、そして日々生まれてきている資料にアンテナを張り、しっかりと必要な資料を集めて利用者に提供していくことなのでしょう。

 言ってみれば当たり前のことではあるのですが、今日の写真展を見てその思いを新たにした次第です。

エリザベス・キューブラー・ロスの思い出 ファーン・スチュアート・
ウェルチ、ローズ・ウィンタース、ケネス・ロス編集 
松永太郎翻訳
東京 麻布小寅堂 2007
ISBN 978-4-9903853-1-6

2007.10.28

「利用者と向き合う」ということ

 お気づきかもしれないが、図書館司書、中でも利用者との対応の最前線に立つ者の仕事には、対人サービスの要素が色濃く現れる。様々な人生経験の中から様々な情報ニーズをもって訪れる利用者に向き合い、想いをお伺いし、そしてその方の必要な情報へのアクセスをお手伝いする。その中で、それぞれの司書は力を尽くそうとしているわけである。

 利用者としっかりと関わろうとした司書の顔は、利用者のほうでも良く覚えていてくださる場合が多いらしい。私などは例え非番の時であっても利用者の方から声をかけてくださることがよくある。光栄なことである。例えば成田空港の出発ロビーで、「司書さんですね、どちらまでですか?」「はい、シドニーまでです」等のやり取りが生まれるわけである。

 今回は、そのようなやり取りの中から、特に私の心に残っておりなおかつ利用者から「他の人に紹介してよろしい」とお許しいただけたケースを記そうと思う。しばらくお付き合いいただきたい。

*********************

 それは、とある土曜日のJRの車内での出来事であった。毎週のスケジュールにしている本屋巡りに向かおうと、中央線に乗り込んだところ、温厚な年配の紳士が声をかけて下さった。実は、私がかなり長期間対応していたレファレンスの依頼者であった。仮にA先生とさせていただく。A先生は、20世紀にスイス等欧州で活躍した音楽教育家でありリトミックの創始者であるE.ジャック=ダルクローズ(1865-1950)の研究をされている方である。

 話は2005年に遡る。A先生がそのレファレンスの依頼のために来館した。ジャックダルクローズは"Le rythme, la musique et l'education"(「リズム・音楽・教育」の意味。Fischbacher & Rouartより刊行)という本をフランス語で著しているのだが、Julius Schwabeの翻訳によるドイツ語訳"Rhythmus, Musik und Erziehung"(Benno Schwabe刊行)には存在する「リズムの根源は労働」という件が原書の今手元にある版には存在しないので、そのドイツ語訳版の元になったフランス語原典版を探し出したいということであった。ちなみに、この"Le rythme, la musique et l'education"は開成出版および全音楽譜出版社から日本語訳が出版されている。

 A先生のおっしゃる「リズムの根源は労働」という言葉を聴いて私が連想したのは、一つはニシン漁を背景に生まれた北海道民謡の『ソーラン節』であり、もう一つはかつてのロシアの農奴たちが船を曳く情景の歌だという『ボルガの舟歌』であった。音楽と人生の深い関わりを語る言葉なのだと、A先生が提示した言葉を捕らえたわけである。そして、その言葉が翻訳版にあって原語版にはないということの問題意識も「わかった」上でレファレンスの作業に赴いたわけである。

 これは少し脱線になるが、私がこのように感じることができたのも、ある程度人間をやってきて、図書館に身を置いてからの経験が蓄積していたからなのだと感じている。幼き日々の学校教育から、司書になってからの様々な知識・経験、その他様々なことの積み重ねが日々の利用者との関わり方に出てくるのだと私は確信している。

 本筋に話を戻していこう。司書が本を探し出すときに武器にするのは当然の事ながら目録である。まず目にしたのは、日本国内の大学図書館が大方参加する総合目録であるNACSIS-WEBCATである。しかし、これで見つけられるのはA先生がお持ちの版でしかない。次は北米をベースに世界中の図書館が参加し、日本でも若干の大学図書館が参加するOCLCの"WorldCAT"や、ドイツのカールスルーエ大学図書館が提供している欧州・北米・豪州図書館検索への橋渡しシステムである"KVK"であった。それらしき版の資料が見つかったら、コピー取り寄せ依頼を行ったのは言うまでもない。しかし、それらからも、A先生の望む資料は見つけられなかった。

 求める資料への道筋が困難なとき、司書は時として図書館の公式制度上のつながりだけではなく個人的なつながりをも武器にして闘う。武器として管理人が採用したのは、国内外にある図書館関係のメーリングリスト。管理人が所属する研究団体のメーリングリストや、その他有志が集まるもの。海外では、国際図書館連盟(IFLA)が運営するIFLA-Lというリストにメッセージを投稿した。おかげで、国内外の各地からありがたい助言を頂いた。もちろん、寄せられたメッセージを基にして次の行動に移っていたのだが、それでもA先生の望む資料は見つけられなかった。

 ジュネーヴ・ジャック=ダルクローズ学院(Institute Jacques-Dalcroze Geneve)とのやり取りもあった。若干の行き違いもあったが同学院の司書とやり取りを続けたことにより、ジャック=ダルクローズに関する手稿など生資料がジュネーブ大学図書館にあることまで分かってきた。しかし、その中にもそれでもA先生の望む資料は見つけられなかった。だんだんと月日ばかりが無駄に過ぎていった。

 当人及び当該資料の調査が暗礁に乗り上げたため、A先生との協議により、関係者に調査の網を広げた。最前の国際図書館連盟経由で知ることとなったスイス国立図書館によるサービス"SwissInfoDesk"--スイスのこと全般に対応するレファレンスサービス--に対してジャック=ダルクローズ関係者についての調査を依頼したのだが、これもまた効果なしに終わってしまった。

 もはや、司書の立場で打てる手は尽きたと考える他はなくなり、A先生にご自身での研究者との連絡をお願いしたうえで管理人は作業の続行を断念した。着手から1年。その場に残ったのは後味の悪さだったかもしれない。

 JR車内でA先生にお目にかかったのは、管理人が断念した半年後のことであった。A先生によると研究者との連絡は失敗に終わったとのことで、今までに得た情報だけで結論を出し、学会に今回の件について発表したいとのお話を頂いた。車中では、目録の上に目的の資料を表すことや、目録から必要な情報を読み取ることがいかに難しいかという話になり、また私に対するお礼とねぎらいの言葉も頂いた。そのことを伺って、自分自身、肩の荷がようやく降ろせたという感があったように覚えている。

**********************************

 図書館に身を置く私自身の活動の一端をお目にかけた。先ほど書いたように、幼き日々の学校教育から、司書になってからの様々な知識や経験、それらもろもろのことの積み重ねが日々の利用者との関わりにとってとても重要になるのだという想いを新たにしている。これはきっと他の司書の方にとっても同様であろう。

 図書館とは、ただ単に機械的な操作により図書を貸し借りするだけの場ではない。様々な人生経験の中から様々な情報ニーズをもって訪れる利用者と、様々な人生経験に裏打ちされたプロフェッショナルとしての司書たち、そして様々な立場の制作者が生み出した資料の出会いの場である。より良い3者の出会いを積み重ねていくために、今後とも私たち図書館に関わる者はしっかりと歩みを進めていくことが求められているのだと、私は再確認した。

2007.04.15

[映画紹介]ラデュ・ミヘイレアニュ監督作品『約束の旅路』

 土曜日の午後、管理人はいつものように都内の大型書店を巡り歩いていた。東京のM社、Y社、そして神保町。岩波神保町ビルの脇をすり抜けたとき、岩波ホールの大型の宣伝が目に飛び込んできた。現在上演されているのは『約束の旅路』という映画である。読者の中にはご覧になった方も多いかもしれない。私は映画も大好きなので、無論立ち寄った。今日はこの映画について記したい。

      『約束の旅路』 ラデュ・ミヘイレアニュ監督作品
      2005年 フランス映画

 第56回ベルリン国際映画祭等で受賞したというこの映画は、エチオピアにユダヤ人が暮らし、彼らの聖地エルサレムへの帰還を太古から願っていたことと、1984年にアメリカとイスラエルがこのエチオピアのユダヤ人をイスラエルへと帰還させる「モーゼ作戦」という作戦があったこと、そして彼らエチオピアのユダヤ人には大変な苦難の歴史があったことなどのナレーションから始まった。そのようなナレーションに続いて現れたのは家族を失ってスーダンの難民キャンプに主人公の男の子とその母親がたどり着くシーンであった。母親は男の子に「行って、生きて、何者かになりなさい」とのはなむけの言葉を送りつつイスラエル行きの集団に向かわせる。

 その男の子を含めイスラエルに到着したエチオピア・ユダヤ人達を待っていたのは歓迎だけではなく、例えば少年は学校で差別にもであった。エチオピアから来たほかの大人たちも同様である。少年はリベラルな養父母の元で世の差別や偏見から守られて、同じエチオピアからの難民の老人に啓発されながら成長していくのだが、少年はいつも自分のアイデンティティに悩むこととなる。

 男の子は成長し、医者を目指すようになる。パリに出かけ医師になるべく教育を受ける。そして、ラストシーンは彼が「国境なき医師団」の一員としてアフリカの難民キャンプに出向き、そこで「いまだ難民のままである」自らの母親と再会する場面となる。

 7年前にIFLA大会に参加すべくイスラエルを訪れたことのある管理人には、随所に出てくるイスラエルの風景や当時のニュース映像が自らの記憶を生々しくよみがえらせる契機となった。オスロ合意、インティファーダ、嘆きの壁、テルアビブ空港の出発風景、など等。また、自らのアイデンティティや「何者かになりなさい」との母親からの言葉にどのように向き合うかに悩んでいた主人公が難民キャンプ赴任経験のある医師の治療を受けたことがその後の主人公の人生行路に大きく影響する様をみて、「きっかけ」の大切さを見せ付けられた。

 イスラエルを訪ねたことがあるとは書いたものの、不勉強ながらエチオピアのユダヤ人という話や「モーゼ作戦」などはこの映画を鑑賞するまでまったく知らなかった。知らなかったけれども、この映画を見て、それらのことは主人公の生き様ともども自らの心の中に染みとおっていたのである。

 この映画に触れた後、図書館に関わる立場で再確認したことは、図書館というのは、本やビデオ、CDなど、「誰か」の人生にとってとても大切な内容が盛り込まれている資料に出会える場所なのだということであり、また、図書館で本を選び、利用者の方々に提供していくには私達は世の中の森羅万象に対するアンテナの感度を高くしておく必要があるのだということである。

 この映画には下記の原作がある。もし良かったら皆さんも岩波ホールで映画をご覧になり、その後お近くの図書館でこの本を手にとっていただければ幸いである。

    約束の旅路  ラデュ・ミヘイレアニュ,アラン・デュグラン (著),
    小梁 吉章 (翻訳)
    東京: 集英社 2007/02
    ISBN-10: 4087605221
 
追記
 このエントリーは、「cinemacafe.net」で展開されているブログ募金に賛同して書きました。世界中で難民等になっている方々2,100万人の約5分の1がアフリカ地域におられるとのことで、シネマカフェ運営会社「株式会社カフェグルーヴ」では「『約束の旅路』映画が世界を変える ブログ募金キャンペーン」を実施しているとのことです。
 同社サイトには「遠い日本から、少しでも何か出来ることはないか?と思った方はぜひ映画を観て、感想をブログに書き、映画を広めてください」との呼びかけがあり、「『約束の旅路』をブログに書き込んでいただいたエントリ1つに対して、UNHCR(国連難民高等弁務官)駐日事務所アフリカキャンペーンに50円の寄付を行います」との趣旨が書かれています。

2007.02.17

『オランダ絵本作家展』見学記

 読者の中には子どもの本に関わっておられる方も多いことと思う。管理人は今日,そのような方々にとってとても関係があると思われる催しに出かけてきたので紹介したい。その催しの題名は『オランダ絵本作家展』という。

      オランダ絵本作家展 かえるくん,ミッフィーとオランダ
      絵本の仲間たち
      大丸ミュージアム東京(大丸東京店12階)
      下車駅:JR線東京駅八重洲口

 サブタイトルから分かるかと思うが,メインとなっている展示は「かえるくん」が出てくる絵本の作者としておなじみのマックス・ベルジュイスや,ミッフィーであまりにも有名になったディック・ブルーナである。これらの作者の絵本は,多くの公共図書館の児童室の棚にきっと収められていることと思うし,読者には,あのシンプルだが画面にしっかりと正対し,読者に語りかけてくるウサギたちの絵は印象的であろう。

 この二人だけでなく,オランダでは他の絵本作家たちも活発に活躍している。お恥ずかしながら普段あまり子どもの本に接していないのだが,そのような私でも記憶に残っているオランダの絵本の一冊に,祖父の死に直面した少年の姿を描く『おじいちゃんわすれないよ』 (作: ベッテ・ウェステラ 絵: ハルメン・ファン・ストラーテン 訳: 野坂 悦子 出版社: 金の星社)がある。今回の絵本展ではハルメン・ファン・ストラーテンの手になるこの本の原画をはじめ他のオランダ絵本作家、総勢12人の原画に出逢うことができ、オランダでの絵本の活動の一端に触れることが出来る。

 残念ながら大丸ミュージアム東京では2月20日までということであるが、絵本に関心のある方でお時間のある方は明日にでも東京まで足を伸ばしてみる価値があると思う。

2007.01.08

『千の風になって』に寄せて

 私管理人は、職場では主に図書館間相互協力の仕事をしているのだが、また、7~9門(芸術・語学・文学)の本の選書担当者の一人でもある。本を選ぶときは、選書リストとして用いている資料はあるのだが、願わくば実際に本物も手にとって見たい。そのような思いを持って、よく休日には都心の大規模書店を巡り歩いたりもする。今日お話したいのは、そのような書店めぐりのときに出会った、はっとさせられた本の話である。

 その本のタイトルは『千の風になって』。読者の中にも、年末のNHK紅白歌合戦にこの歌が取り上げられたことなどでご存知の方もあろう。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。千の風になってあの大きな空を吹きわたっています」という歌いだしで、まるで死者が残された者に語りかけるかのような、あの歌である。オリジナルの英語詩の作者は不詳。日本語詞と作曲が新井満さんの手になる。

 そして、関連資料として視界に入っってきた次の本やCDを、思わず管理人は衝動買いしていた。

   千の風にいやされて あとに残された人々は悲しみをどうのりこえたか
   著者:佐保美恵子
   東京 講談社 2004
   監修 新井満

   千の風になって スペシャル版 企画プロデュース:新井満
   東京 ポニーキャニオン 2006 CD
   「千の風になって」一曲のみを複数の演奏者がそれぞれ演奏したもの

 前者は、日英両方の「千の風になって」のあと、第1部では肉親との死別など身近に死を経験した方々がこの詩とどのようにかかわり、どのようにかけがえのない人との別れを形作って言ったのかが佐保さんの取材の元に描かれている。この中には、神奈川県の小学校で「命の授業」に最後まで取り組んで旅立たれた大瀬敏昭さんのことも描かれている。また、第2部では新井さんの仲間の連れ合いの方の死など、「千の風になって」誕生までの物語が描かれている。第3部では作家の故遠藤周作さんの奥様の遠藤順子さんと新井さんとの対談が掲載されていて、そこでもこの歌などを通してかけがえのない人の死や命のことが語られている。ちなみに、後者のCDで複数の演奏者とは新井満、Yucca、谷川賢作、中島啓江、コペルニクス、新垣勉、スーザン・オズボーンらのことである。

 管理人は、かつてよく読んだ作家柳田邦男さんの『犠牲(サクリファイス) : わが息子・脳死の11日』(文藝春秋, 1995.7)--自死したご子息を巡る物語--を手にして立ちすくんで以来、「死」についての本にはよく目が行くようになったのだが、今回の『千の風になって』の「私は墓の中にはいない」という表現には驚かされてしまった。今まであまり出会ったことのない表現だったからである。しかし、上述『千の風にいやされて』でご遺族の一人が「死によって人が存在しなくなると思うより、風や光になっていると思うだけで、大切な人を亡くした喪失感が浄化される」と語っているように、「私(死者)は風になって大空を吹きわたる」というメッセージが多くの人の心に力を与えているのだと管理人は痛感した。

 昨今、上述の『犠牲』やその続編である『『犠牲 (サクリファイス) 』への手紙』(同社,1998.4)、東京学芸大学教授である相川充さんの『愛する人の死、そして癒されるまで : 妻に先立たれた心理学者の"悲嘆"と"癒し』(大和出版, 2003.2)など、心理学者らが「喪の仕事(グリーフ・ワーク)」と呼ぶ事柄に関わる本が多く出版されている。そして今回の『千の風になって』。もっとも、一人ひとりの人生は全然別のものであり、どれ一つとして同じ離別の物語などない。しかし、『千の風になって』に触れて大切な人を亡くした喪失感が浄化されると感じられた方がいらっしゃるように、書物などは時としてその人を新たなステージへと導いていく力となりうる。そして、管理人はこのように思う。図書館も、風を心に受けて進んでいくための大切な場所の一つとなりうるのだと。また、図書館に関わる者は、そのようなことに対して感覚を鋭敏にしていかなくてはならないということも、今回『千の風になって』に触れて痛感したことである。

追記
 こちらから新井満さんの公式ページ「マンダーランド通信」を訪問できます。
 http://www.twin.ne.jp/~m_nacht/

 

2006.10.14

本に携わる人の想い……[番組紹介]NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』その2

 先日、当ブログでNHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』を紹介させていただいた。毎週木曜日の22時に放映される番組で、それぞれの畑で一流の仕事をされている人々を取り上げて、その人の仕事や、育ってきた過程(転機をも含め)、どんな道具を持ち、どんな想いを抱きながら仕事に臨んでいるのか、そして、番組の最後に「プロフェッショナル」という概念に対するその人の定義を取り上げている。

 今回は再びこの番組を取り上げてみたい。なぜなら、私たち図書館にかかわるものにとても深く関係している畑の人…本の編集者…が取り上げられていたからである。

「ベストセラーはこうして生まれる 
〜 編集者・石原正康 〜」
『プロフェッショナル 仕事の流儀 第28回』NHK総合,2006年10月12日

 石原さんが送り出した本は村上龍『13歳のハローワーク』や、渡辺淳一『愛の流刑地』等数多くあり、その多くが大ヒットとなっている。番組では、村上さんや渡辺さん、山田詠美さんら作家たちと石原さんがどのようにかかわりながら本が生まれているのかが克明に綴られていた。石原さんは自らの編集の仕事を作家にとっての助産婦(産婆)なのだと例えるのだが、自らの仕事以外の時間でも作家たちと腹を割って付き合い、作品誕生を強力に支援し、いざ作品が生まれればその熱い想いを伝えていこうと、書店等の訪問を欠かせていない。

 図書館が担っている仕事は、図書館の利用者の活動の過程で生じる「知りたい!読みたい!!」の想いと、本を生み出す人々の「伝えたい!」の想いを繋ぐお手伝いをすることなのだといえよう。そして、その図書館にかかわる私たちは、図書館の利用者をよく知る必要があるのと同様に、本(その他の資料も同様)が生み出される過程についてもよく知っておく必要があるということも言えよう。今回の番組を通じて、その思いを強くした。

参考WEB

「プロフェッショナル 仕事の流儀 石原正康」『茂木健一郎クオリア日記』
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_67aa.html

NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」オフィシャルサイト
http://www.nhk.or.jp/professional/

2006.08.27

悲しい物語を繰り返さないために図書館ができること(2) 止むことのない医療過誤に寄せて

 Yahoo!ニュースやGoogle!ニュースをご覧いただくと、あまりにも多くの医療過誤や医療事故が起こっていることが読み取れるであろう。当然これらに載らないものもあるに違いない。医療を受けよりよい人生を歩いていこうとされたはずの方々の身に事故が起こることで、ご本人やゆかりの方それぞれの人生は計り知れないダメージを被ってしまう。もちろん、医療者側も様々な取り組みを続けておられるのだろうが、それでも残念ながら医療過誤は続いている。そして、医療過誤は他人事ではなく、いざというときにはわが身に降りかかってくる。

 このようなことが常々頭の隅にあった管理人だが、今回韓国のソウルで行われた国際図書館連盟(IFLA)第72回大会に参加して様々な発表に接することで大変啓発されて帰ってきた。特に、健康・生物科学分科会で行われた次の発表に出会った管理人は興奮冷めやらぬ状態になっっていた。

Ontology based Adverse Event Reporting System Architecture / Senator Jeong & Hong-Gee Kim.
Presented in Health and Biosciences Libraries, World Library and Information Congress: 72ndIFLA General Conference and Council, 20-24 August 2006, Seoul, Korea

 Senator Jeongさんらはソウル大学の研究者であるが、この発表の内容は、医療活動上絶対に繰り返し起こしてはならない事柄のデータベースを構築しようとしている取り組みについての話である。患者の安全は医療者のみならず一般社会全体での重要な問題であるが、医療事故等の事例の報告システムの必要性が広く指摘されているにもかかわらず広く受け入れられているシステムがないという問題意識。そのような事例のデータベース構築の必要性。このデータベースに必要とされるデータ構造。それらのことが述べられている。

 ここまで読み進められた方の中には「失敗学」という言葉を思い出された方も多いことであろう。このテーマについては工学院大学教授畑村洋太郎さんの『図解雑学失敗学』(ナツメ社,2006)をはじめとしてさまざまな本が出ており、また、日本の独立行政法人科学技術情報機構(JST)では失敗学の考えをベースとした『失敗知識データベース』が構築されている。

 確かに上記Senator Jeongさんらのデータベースはプロトタイプ(試作段階)であり、今後広く議論を積み重ねていく必要があろう。また、研究者・専門図書館・公共図書館それぞれの現場で今後なすべきことは異なっているであろう。

 しかし、生き死にに関わる情報に図書館関係者がどのように関わっていくのかは、どの国でも重要な問題になっていくであろう。もちろん、私たちの国日本でも。そのような今、私たち図書館にかかわる者は、山ほどの課題はあるけれどもしっかりと前進していくことが必要である。 

2006.08.13

悲しい物語を繰り返さないために、図書館ができること

 読者の皆様、残暑お見舞い申し上げます。皆様の中には、休みにはご家族で海や川やプール、などという方もいらっしゃることでしょう。 そういう管理人も水泳が大好きなので、たまにプールで楽しんだりしています。

 でも、お盆が近いせいかもしれませんが、このように書き始めながら大変悲しくなることを思い出しました。埼玉県ふじみ野市で7月31日に起こったプールでの吸い込み事故です。ひとりの少女が10歳にもならずにこの世から去らなければならなかったこの事故のことは、まだ多くの方の記憶に残っていることでしょう。管理人もこの少女に対して冥福を祈りたいと思います。

 このプールの事故については、さまざまな続報があります。管理面も含め問題がいろいろとあったようです。図書館に関わるものとしては、そこからいろいろなことを汲み取らなければならないでしょう。その中で、今回はもっとも図書館に密接なこと、そう、「情報の提供」という切り口から語ってみたいと思います。管理人が新宿・紀伊国屋書店でふと目にしたのが次の本でした。

あぶないプール : 学校プールにご用心! / 有田一彦著. --
東京 : 三一書房, 1997.7
200p ; 18cm. -- (三一新書 ; 1167)
注記: 参考文献: p191-192
ISBN: 4380970116

 この本は、飛び込み事故につながるプールの水深の問題や、今回ような事故につながる排水口の問題、水質の問題など、重大な事故などにつながるプール管理の問題に対して警鐘を鳴らし、子供たちが健やかに泳ぎを楽しめるようににと書かれたものです。また、Webcatを検索してみていただければ、こんな本も見つけられることでしょう。

学校水泳プールのすべて:建設・管理・指導・事故対策/日本体育施設協会
学校水泳プール調査研究委員会編. --
東京:体育施設出版, 1985.5

水泳プールの安全管理マニュアル/水泳プール部会技術委員会編集. --
改訂第三版. --
東京:日本体育施設協会水泳プール部会, 2002.3印刷

 本だけではありません。国立国会図書館NDL-OPACにある『雑誌記事索引』を検索してみていただくと、そこには下記の記事をはじめとして有用な雑誌記事がいくらでも出てくることにお気づきのことと思います。

プールシーズン間近!ソフトとハードのオープン態勢を整えよう 
利用者が安全に楽しめるプール施設を提供するために--
シーズン突入前の点検・改善項目を把握し実行しよう / 池田勝利
月刊体育施設. 35(7) (通号 449) [2006.5]

 ブログ『CNET Japan』に「正常化の偏見」 という記事が載っていました。目の前に危険が迫ってくるまで、あるいは迫っているのに、その危険を認めようとしない人間の一般的な心理傾向を災害心理学では「正常化の偏見」と呼ぶのだそうです。必要なことは、今回のプール事故のみならず、常日頃から当事者の方々や管理者の方々を含め多くの人が安全ということにしっかりと関わっていくことなのだと思います。そのためには安全に関するさまざまな事柄を知る必要があります。そのような情報を知りたいというニーズを持つ人と、必要な情報とを結びつける場面では、図書館、そして司書もしっかりとお役に立てるのだと、管理人は確信しています。

2006.06.24

5万回御礼

 パソコン不調等でしばらく更新していない間に、カウンターが5万回を超えていました。読者の皆様のおかげさまでここまでくることができました。ありがとうございます。

 この間、いろいろなご意見をいただきました。そのことに対しても御礼を申し上げます。本当ならばここで一つ一つにお答えをしていくべきですが、ここのところ雑事に紛れ、しっかりとお返事できるかどうか心配です。いただいたご返事はこれからの活動に活かすようにしていきますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。

2006.05.14

プロフェッショナルとは…[番組紹介]NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』

 図書館が転換期に立ついま、これまでにもまして図書館の仕事に携わる人々の問題について取り組んでいく必要があろう。何も武田信玄のせりふ「人は石垣、人は城」を持ち出すまでもない。司書の専門性についての議論や取り組みが今まで以上に求められているのだと言えよう。
 今回紹介するNHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、他職種で頑張っておられる方々の思いや仕事の流儀、来し方に触れることにより、自分たちの図書館の仕事に関わる者の専門性を考える際のヒントをいただけるのではないかと思い、取り上げた。
 毎週木曜日の22時から放送されているこの番組では、それぞれの仕事人の現在の仕事場や流儀、仕事への想い、用いる道具、そして来し方の紹介がある。そして、それらに基づいて、脳科学者の茂木健一郎さんやNHKの住吉美紀アナウンサーがキャスターとしてそれぞれの仕事人たちの世界に迫っていくものである。そして、毎回の番組はそれぞれの仕事人たちが語る「プロフェッショナルとは何か」の定義で締めくくられるのだが、その定義を聞いていても大変興味深い。付け加えていえば、キャスターの一人である茂木さんは文藝春秋より2005年11月刊行された『クオリア降臨』をはじめ多数の著書・論文をお書きになっている。詳しくは国立国会図書館のNDL-OPACなどをご覧いただきたい。
 今年2006年の1月の開始以来、番組には次のような仕事人たちが登場してきた。教師、弁護士、医師、科学者等々。例えば、 WHO世界保健機関で現在鳥インフルエンザ対策に取り組む進藤奈邦子医師の回(2月28日)では、危険と隣り合わせの日常活動の裏に普段の家庭での生活が営まれていること、そして今は亡き弟さんがかつて語った言葉「医師になり、僕と同じように苦しんでいる人たちに、僕の代わりに明日があるよって言って欲しい」が進藤医師の支えになっていることなどの紹介があった。そして、進藤医師にとってのプロフェッショナルとは、「技と情熱」なのだという。
 ここまで書きながら、ふと、管理人自身のことを振り返ってみた。幼少期、少年期、司書を志した頃、大学で図書館学の勉強をしていた頃や仕事に就いてからのこと。また、「ある事柄について一定の知識があることを「知っている」と言うのに対して、まとまった知識に基づいて共感したり、行動の指針を持つことができるレベルを「わかっている」と言うのだ」との定義をプレゼントしてくださった方のことも忘れることはできない。そして、現在の自らの考え方を決定付けた、オーストラリアのシドニーで活動するLegal Information Access Centre(LIAC)という図書館との出会い。その図書館では、暮らしのために法情報を必要とする一般市民に対して必要な情報を提供する司書たちの姿があった。ほぼ期を同じくして、自分自身の身にも、 LIACで出会うようなケースが立て続けに起こったことが昨日のことのように思い出される。そのようにして、今、管理人も、資料や情報の提供を通じて人の想いを支える図書館の現場に立ち続けている。
 そして、今の私ならばプロフェッショナルをどのように定義するだろうか。図書館利用者の想いに共感する力、そして--進藤医師の言葉を拝借してしまうが--、情熱と技、と定義するのであろう。
 ともあれ、この番組を通じて、皆さんもきっとそれぞれの仕事への想いを新たにできるであろう。是非一度ご覧いただきたい。

2006.04.23

図書館委託はなぜ起きるのか

図書館委託はなぜ起きるのか-前・文京区立真砂中央図書館長佐藤直樹氏「図書館カウンター委託から一年-流れぬ川の堰を開けて-」についての反論と感想-

池沢昇(東京の図書館をもっとよくする会)

1.図書館委託はなぜ起きる
 「図書館、市場規模は2倍強」のタイトルで日経新聞は、市場としての図書館の記事を掲載した(03.12.06)。首都圏の自治体には970の図書館があり、民間委託の市場規模は5年後には94億円に拡大するとし、さらに、教育委員会が選んだ館長の配置義務や選書など基幹的な業務は行政が担うことになっていることなどが全面委託を難しくしているので、いっそうの市場拡大には法制度の見直しが必要になりそうだ、と述べている。この記事は日本の政治をリードする財界の狙いと図書館を取り巻く状況を端的に示している。
 今まで、公が担ってきた事業を民間企業に委ねるために使われるのが「アウトソーシング」「民間でできるものは民間へ」というスローガンである。この流れは国や自治体をも覆っている。委託が効率的だから委託する、住民サービスが向上するから委託するのではない。委託そのものは前提であって、委託によってどれだけ経費を削減し、どのサービスを向上させるかが、自治体に求められる。
 図書館委託に自治体の財政状況が大きく影響しているのは事実だが、それだけを図書館委託の原因とするのは誤りである。なぜなら、経費削減のための手法は、専門非常勤化や派遣職員の導入などもあり、図書館サービスの質の維持向上などの点からより良いように見えるにもかかわらず、委託のみが指向されていることからも明らかである。
 さらに加えて、23区に委託が突出して起きていることから、23区の特殊な図書館人事政策も深く関わっているように思う。東京23区は、司書の採用をおこなわず、事務職員として採用した人を3~5年間図書館に配置しては、他部署に配置転換することを繰り返してきた。これでは図書館の運営に支障が出てくるので、多くの区では司書有資格者を図書館に長く置いたりするなどの配慮をも併せておこなってきた。しかし、司書採用をおこなったり,図書館員の養成に力を注いだ多摩地域の同規模図書館を比較すると、23区は職員数を多く配置せざるをえず、しかも、サービス水準は低いという非効率的な運営をおこなってきた。優れたレファレンスを提供する図書館員は個々にはいるにしても、また、館によっての違いはあるにせよ、23区を見渡せばレファレンスの力量はきわめて低い。それどころか、本を読んだことがない、人と話をしたくないという図書館員が生まれるということも、23区の制度上、普通に起きてくる。これは、図書館行政の責任者である館長であろうと例外ではない。
 私たちは、図書館らしい図書館を作るために、税金のムダ遣いをやめて、司書を採用するように行政当局に働きかけてきたが、実現しなかった。今の図書館を「無料貸本屋」という人がいる。区行政トップが、今まで多くの人件費をかけてきた「無料貸本屋」を、人件費を削った「無料貸本屋」に変えようと言う発想にたつのは、図書館や文化についての識見を持たなければ容易なことである。
 前文京区立真砂中央図書館長佐藤直樹氏の(以下氏という)「図書館カウンター委託から一年-流れぬ川の堰を開けて-」(以下、氏論文という)は、文京区立図書館のカウンター業務委託業務を実施した図書館現場の責任者として、それを肯定する立場から書いた論文である。今まで、図書館委託について、具体的な実例に即した委託肯定論を見ることはなかった。委託した区では、事実と異なることを外部で話せば処分する、というような緘口令を職員に出しているところもあるように、実態を外部に知らせることを、極端に嫌う。多くの問題を抱えているからである。具体的な事柄を挙げて述べれば、それだけ反論を受けやすく、知られたくないことも出てくるだろう。その影響が氏のみにとどまらなくなることも考えられる中で書いているだけに貴重に思える。
 氏は、図書館委託の背景について、「財界が市場としての図書館を求めている」ということには触れていない。あるいは、全く関心をもっていないように見える。氏はその代わりに、2点をあげている。「アウトソーシング」と「人件費」である。氏論文の冒頭に、「アウトソーシングが『委託問題』になった瞬間から、拳を振り上げ反対する人々が出てくるのはなぜだろうか┅。アウトソーシングとは、外部の資源を有効に活用して事業を進めるという意味なのに┅。」とある。氏は、もともと異なる概念である「アウトソーシング」と「委託」を同一のものとして描き、外部の資源を活用する「アウトソーシング」=「委託」になぜ反対するのか、と主張した。
 それに続けて氏は人件費問題について述べる。この箇所は前者よりも、入り組んでいるので、より詳しく述べることとする。「人件費の圧縮は文京区でも待ったなしの状況でした。当時の区職員全体の人件費比率三一%に対し図書館員のそれは七四・六%と極めて高い水準にありました。図書館は『人でもっている』のだから人件費が高いのは当たり前だと言ってしまえばそれまでですが、長引く不況の中で世間の人々が呻吟している現実にしっかりと目をこらすならば、貴重な血税が原資になっている公務員の人数と人件費がこのままでいいのかどうかは自ずと答えは出てくるはずです。」と氏は展開する。この文章は説得力があると思っている人がいるので、驚いている。よく見れば分かるように、論理のすり替えを行っているのである。最初、氏は図書館の人件費率が高いことを問題にしていたが、人件費率を巧妙に人件費にすり替え、図書館の高い人件費がこのままでいいはずはないと、結論付ける。
 まず、人件費率が高い事が問題なのかどうかを見てみよう。自治体間の比較において人件費率が一定の指標となりうるが、図書館と役所全体との指標とはなりえないと、考える。人件費率の性格は、その部署に所属する人間の数とその部署の予算との関係である。1人あたりの予算が多ければ人件費率は低くなる。例えば、区役所であろうと市役所であろうと、広報紙を発行する部署と税金関係を扱う部署との人件費率を見れば明らかである。大量の印刷物を外注し、新聞に折り込む経費は膨大であり、人件費率は低い。一方、税金を集める部署では、人件費以外に多くの経費は必要としないので、人件費率は高い。このように特定の部署の人件費率を区役所全体の人件費率と比較することは、意味をなさない。
 しかし、全国の自治体は、おおむね共通した事業を行っているので、指標にはなる。この指標は、今日では、どこまで委託が進んでいるかを表す指標である。恐らく氏は、それを取り違えたのであろう。
続いて、人件費が人件費率に変わり、さらに人件費率が人件費にすりかわっていく過程を見る。氏は、図書館の 人件費率の高さを指摘した後に「図書館は『人でもっている』のだから人件費は高いのは当たり前」という、委託反対論を紹介する。ここで、氏は人件費率を人件費にすり替え、しかも人件費に給与水準(賃金)の意味を含ませることによって、委託反対を言う人間が社会一般とかけ離れた常識を持っているかを証明した。しかも、続いて「公務員の人数と人件費がこのままでいいのか」と続ける。ここの人件費は、「人数と人件費」と並べて述べていることから、本来の意味の人件費ではなく、給与水準を表しているように思える。いつのまにか、人件費が人件費率に化け、人件費率が人件費に化け戻り、最後に人件費が給与水準に化けなおす。妖怪変化を思い起こす。

2.図書館委託への道
 図書館の委託は区のトップの方針として決定され実施される。多くは、区の行革方針の中で、保育園や児童館の委託・民営化あるいは福祉サービスの見直しと言った、区民サービスからの撤退が決められる中で、図書館もそのひとつとして委託の方向が決められる。
 図書館の委託をいつやるのかも区のトップが決める。それは至上命令である。その命令に従い、図書館長は組織内に検討部会を設置して、委託の理論付けをおこなう。「アウトソーシングだから委託します」「官から民への時代だから委託します」では、議会にも区民にも説明ができない。「委託で今までできなかった祝日を開館します」「委託で職員削減して資料費に回し、資料を充実します」これが必要になる。
 検討組織は、図書館職員を中心に、区長部局や教育委員会の委託推進の任務を持つ企画調整機能担当者を加え設置される。この組織は形式的には委託の是非を含め検討するが、目的はどこの部分を委託するかを検討することにある。さらに委託本体からは経費削減しか期待できないので、開館時間の延長・祝日開館、資料費の増額を付け加え、委託効果をあげることをもここで検討する。トップは、委託で大きな成果をあげるのが当然と考えているから、図書館行政の現場責任者には失敗は許されない。I区の中央図書館長は、「なぜ、開館時間を延長するのか」という組合の質問に、「委託でサービス内容も少し落ちるし、1000万円の削減だけではアピール性がない」と答えている。
 検討会が区長の気に入らない検討結果を出した区がある。館長と直属の上司の教育次長とが呼ばれ、区長から「委託をしたらとんでもないことになるという読み方が出来る提案書になっている。これでは委託をやらないほうがいいんじゃないの」と激しく叱責され、検討を白紙に戻したということである。
 ところが、文京区では奇妙なことが起きる。氏は、「二十名の職員削減の代わりに非常勤職員を採用するという道を歩めば、何も苦労することはなかったと思いますが」と述べ、続けて図書館職員非常勤化の区方針を、自らカウンター委託に方針転換させたように記している。現実の世界ではそんな馬鹿なことは起こりえない。区の重要課題である図書館カウンター委託について、課長職である氏の裁量範囲は限られている。決定は上でなされ、重要な指示は上司から出る。氏はその指示に従い動いてきたはずである。にもかかわらず、一切触れず、氏はその行政としての意思決定を、自らが決断して進めたように描いている。その前後を含め、氏論文を通して区のトップの姿も上司の姿も見ることはない。
 氏論文から推測できる区の動きは以下のとおりである。当初、「文京区行財政改革推進計画」は「受付事務の非常勤化」の方針を持っていた。新たな区政基本方針として「新公共経営の推進」が策定され、図書館は、非常勤化から民間委託の方向に変わった。トップは図書館長である氏に実施年度を示して実施のための検討を命じた。その命令に従い、氏は図書館内に検討組織「望ましい図書館運営のあり方検討会」を設置したのである。
 ここに氏が紹介する真砂中央図書館の玄関に委託開始とともに張り出したというポスター「変わります!図書館」を見てみよう。「①カウンター業務を「アシスト株式会社」に委託して運営しています。②朝9時から開館しています。③月曜日も開館しています。(第4月曜日を除く)④特別整理期間(休館日)を短縮します⑤人件費を削減し、資料費を充実しました。⑥3Fに「レファレンス・カウンター」を設置しました。」(下線は筆者による)のうち、下線部分が委託に直接かかわる事項、その他は委託とは直接関連しない事項である。ここに見られるように、委託はサービスの向上とは関係ない。氏は、氏のポリシーによってサービスを向上させたかのように述べているが、委託を実施したすべての館長もまた、氏と同じポリシーをもっている。なぜなら、すべての委託した区が、委託だけではアピール性がないので、委託に併せて同様のサービス向上施策を実施している。氏は先人の後を歩いているに過ぎない。

3.委託会社とアルバイト社員
 文京区はアシスト株式会社に委託している。アシスト社は人材派遣会社で最近数区から図書館カウンター業務を受託している。この図書館カウンター業務の委託を最初に切り開いたのはT社である。T社は図書館の専門業者を標榜し、多くの自治体に図書館を委託するように果敢に働きかけ、ほぼ独占的に受注を受けていた。図書館を未開拓の市場として目をつけた最初の民間企業といってよいだろう。T社の社員が図書館の個人情報を不正に入手し利用した事件が新聞報道され、その後、シェアを減らしたが、今でも多くの図書館のカウンター業務を受注している。T社は文京区に本社がある企業でもある。また、やり方は他社と共通するので、T社がどのようにおこなっているか簡単に述べる。
 T社が図書館に配置する社員は、チーフという名の責任者を除き、ほとんどがパート社員である。時給は800円台で、夜間勤務の場合で1000円程度、社会保険料を会社が払わなければならなくなる時間を越えては勤務させないようにする。平均月収は9万円程度でとうてい自活できない。たとえ図書館への熱意があっても、将来を考えれば続けるわけにはいかない。よりよい就職先があれば変わっていく。生活できない給料しか出さなくて、優秀な社員を確保することができるわけがない。
 ところが一方,区からの委託料のほとんどが図書館配置社員の人件費であるはずなのに、社員に払われるのは受託料の半分程度と推測される。たとえば、5館の委託を受ければ、1館2000万円として、1億円の受託料が入ってくる。そのうち5000万円が濡れ手に粟でT社に入る。また、区側が図書館カウンターに一定の専門性・経験を持つ委託先を、というところに持ち込めれば、T社は断然有利になる。
 このT社は果敢な売込みで知られている。それは次の話からも伺われる。「90年代に図書館人や出版人のパーティに出席したとき、隣にいた‘T’という会社の人が酔っ払ってこんなことを話した。接待にはいろいろな‘風俗’を使う。女の人はご存じないでしょうと具体的に話してくれた。ここでは話せないが、後に大蔵省の‘ノーパンシャブシャブ’が話題になったとき、あの姉妹版かと納得した。」(東京の図書館をもっとよくする会ニュースNO.18)
 ひとつの区で5館を受託すれば、5000万円のほとんどが純益になる。初年度に1000万円の工作資金を投入しても、数年間の視野で考えれば、莫大な儲けに変わりはない。民間会社にとっては、利潤追求が目的であり、その目的を達成するために手段を尽くすことは当然のことである。新聞の社会面をにぎわす官民癒着に、区役所や図書館だけは別であるとはならない。
 昨年11月13日の朝日新聞が、不動産業者から300万円相当の物品を受け取ったとして処分されたN区元部長の処分が「訓告」であったことを報じた。懲戒処分は、重いものから免職、停職、減給、戒告の4つで、元部長の受けた「訓告」は懲戒処分ではない。ごく軽微な処分であり記録にも残らないし、具体的不利益もないので、処分でない処分といわれる。このような腐敗した状態になっているから、公務員としての倫理観を持つ役人はそうでもないだろうが、「官民の共同」や「アウトソーシング」の世界にいる役人がそれらを受け入れる下地は十分にできているのである。

4.T社社員の「個人情報の不正使用」をめぐって
 02年12月、江東区でT社の社員が起こした事件は全国紙にも報道された。最初にこの事件を報道したのは、「都政新報」という都区政を扱う業界紙で、大きく報じた。それらによれば、図書館に配置されたT社の社員が自分の予約するCDを早く借りようとして、不正に個人情報を引き出し、予約待ち順位1位の男性の妻を偽称して、図書館に電話した。ところが、偶然電話に出た図書館職員がその男性自身であったことに端を発して、図書館はこの事実を知ることになった。しかし、これが多くの人の知ることになったのは、「都政新報」記者が委託の記事を取るために館長にインタビューしたところ、館長がこのことを喋ってスクープされたことによる。事件があって1ヵ月後である。委託でまずいことが起きても隠し続けるので、このように事件が図書館の外に出ることは稀である。この館長は、地方公務員法で守秘義務が課されている職員が問題を起こさない保証はないのだから、この程度の事件は問題ではないと考えたのだろう。だから、事件のあったことも、インタビューのことも上司に報告しなかったようだ。よって、区の幹部は「都政新報」で自分の区で何が起きているのか知ることとなった。
 この事件で江東区は、契約解除などのペナルティーを課すのが当然のように思えるのだが、T社が再発防止策を区に提出することで処理することとした。そして、これも信じがたいことだが、次年度も、このT社は8館を受託していたところを、2館を減らされただけで、6館を受託した。ここにも、T社の江東区に対する影響力の大きさを見ることができる。
 さて、文京区に戻ろう。氏は、この事件のことにも触れ、次のように述べる。「先行区で個人情報の私的利用に絡む問題が起きたことを耳にしましたが、よくよく聞いてみると、必ずしも委託スタッフだけが責められるべき事案ではなかったようです。」氏は、委託業者を弁護して、T社が起こしたこの事件を「個人情報の私的利用に絡む問題」としてT社に責任がないかのように筆を曲げ、次に当事者である委託会社社員についても「委託スタッフだけが責められるべき事実はなかった」と意味不明の言葉を述べた。このことについて書くのなら、新聞の内容を紹介し、実際に起きたことと照らしてどこが違っているのか、「(問題を起こした)委託スタッフだけが責められ事実はなかった」というのなら、どこに責任があるのか、書くべきである。しかし、氏の記述はあいまいで、実際に何が起きたのかについて述べていない。しかも、氏はこの事件の新聞記事を「耳にした」ものの、目にはしない。「都政新報」はもとより、一般紙でも取り上げられたのに読んでないのである。しかも、この事件が各紙で報道された時、文京区の検討会で委託検討をおこなっていた時期である。氏が述べるには、氏はポリシーを持って座長をつとめていたはずなのだが。氏は,委託会社を弁護することに気を取られ,自身の述べていることが何を意味しているのか、信じがたいことだが、思い至らないようである。
 なお、私が誤って引用したと思われると困るので、「事案」について説明する。氏は、「委託スタッフだけが責められるべき事案(・・)ではなかった」と、「事件」あるいは「でき事」に代えてと思われるが、「事案」を使用した。「事案」は「問題になっている事柄そのもの」(広辞苑)を表す言葉で、役所では、「その事柄」についてどの役職にあるものが決定する権限を持つのかを示した「事案決定手続き」などに「事案」は使われる。氏は、誤ってそれを使ったのである。
 この事件に絡んで、T社と文京区との間に極めて不可解な出来事が起きた。02年12月、T社が「業務の指名辞退のお届け」を文京区長宛に出したことである。その内容は、「新聞発表にあるように、江東区で、社員が行った業務上知り得た個人情報を業務目的外に使用したことについて反省して、業務の指名を辞退する」というものである。この「指名辞退届け」が出たのは、文京区が図書館委託を検討しているさなかである。では、なぜ江東区に出さないで文京区に出したのか。なぜ、文京区だけに出して、他の区に出さなかったのか。文京区の図書館を受託することが内定していたということなのか、この不可解な指名辞退届けの真相は霧の中にある。

5.争点は何か-「委託ダメ論の検証」を検証する
 「四 委託ダメ論へのアプローチ」で、氏は、「委託に反対した論拠はどうなったでしょうか」として、氏がまとめた委託に反対する論6点の「検証」を行っている。謂わば「委託ダメ論」ダメ論である。文京区の委託をめぐる論争であるので、委託反対論6点のまとめ方が正確であるかも含めて、具体的には、文京の図書館の人たちに委ねる。私が行うのは、氏の「委託ダメ論の検証」を検証し、氏の「検証」がどのようなものであるかを示すことである。

1)「①利用者の声やニーズを直に受け止め、サービスがサービスに反映させることが難しくなりサービスが低下する」(氏論文第2章から引用)との反対論に対し、「①については、問題は、ニーズを直接把握できるかどうかではなく、どうニーズを実現するかが重要なのです」と述べる。これは、意図的に論理をすり替えて、あたかも、委託反対論が、ニーズの実現よりも、ニーズを把握することを重要に考えているかのように見せかけて、読む者が委託反対側に理がないように思わせるようにしたのである。氏は、この6点の「検証」の場で、ここともう1点については、委託反対論の紹介を行わなかった。両論を並べると、いずれも、氏の「検証」に不利になるからである。
氏は、「どうニーズを実現するかが重要なのです」と述べたが、このことをそれ以上には展開しない。そして、委託会社社員(スタッフ)を通じてニーズは把握できること、そして、コンピュータ上の貸出状況等でニーズを把握することの重要性について述べる。これが氏の「検証」である。
前者については、委託会社社員から引継ぎや月1回の委託業務検討会議の場で聞くより、直接に利用者から聞いたほうが、的確迅速にニーズを把握し対応することができる。それは余りに自明なことに見える。そのことを氏は理解できないのであろうか。
後者のコンピュータのデータなど様々な資料や情報を使って区民のニーズを把握しようとする事は、直接に利用者からニーズを把握することが必要であるとの主張に矛盾するものではない。むしろ、直接に利用者の声を聞き、併せて様々な資料にも目を通しておくことが必要だと思うのだが、氏はこのことを否定するのであろうか。
氏はここで、委託反対論が「利用者の声を直接聞くことが、利用者の声を実現するより重要だ」と主張しているという虚構をつくり、その虚構の誤りを論証する「検証」を行ったのである。
2)「委託スタッフは、個人情報を守る意識が薄いため、カウンターの端末から、興味本位に個人のプライバシーを除き見て問題になる恐れがあると言う主張ですが、1年を経た今、何も起きていません」と、氏は述べる。ここで氏の紹介する委託反対側の「主張」が、どこまで文京区の委託に反対する人たちの主張を反映しているのか、このような低次元の委託反対論は聞いたことがないので、文京の人の反論を待つこととしたい。
氏は、ここでは2点の主張を行っている。ここが私の検証するところである。
1点は、委託会社はプライバシーの社内研修を徹底して行っているということについてである。「受託会社に採用されるとすぐ、社内で図書館業務全般の研修はもとより、個人情報保護業務についてみっちりレクチャーを受けます」と述べている。委託会社は、図書館に配置するパート社員(スタッフ)の研修の実態を明らかにしないので、実態を掴むことはできないでいる。しかし、当初に配置するパート社員(スタッフ)には、ある程度の研修を実施できても、途中で急に止めた人の代わりに配置することになった1人に対しても、みっちりレクチャーするとは、経費の面からも常識的に考えられない。しかも、委託会社は、参加者に交通費プラスアルファしか出さないから、参加しない人もいる。氏は当然委託先からの情報でこのように述べているだろうと思うが、研修内容・時間・受講率など、具体的な内容についてはほとんど何も触れていない。
2点目は、氏の言う「先行区で個人情報の私的利用に絡む問題」である。これは、先の第4章で詳しく述べたところであり、それを以って足りるので、重ねては述べない。
3)「③カウンターに職員がいなくなり館内秩序が守られない」(氏論文第2章から引用)との委託反対論に、「そもそもこれは、先行区の図書館で子どもがいたずらされるという事件があり、それは委託スタッフが対応できなかったことが原因だというプロパガンダに基づくものです。しかし、情報収集の結果、そんな事実はなかったことが分かりました」と述べる。このことの真偽については、文京の人たちに委ねる。
この箇所は、氏が委託反対論の紹介を行わなかったもうひとつの箇所である。前述の1)と同じに、反論になっていないので、並べると氏にとって不利になるからである。
私がここでは、氏の「検証」の杜撰さを検証する。
氏は、次の2通りの解釈ができるように作った。①いたずら事件は事実だが、委託スタッフの対応が原因で事件が起きた事実はない。②いたずら事件そのものがなかった。読まれている方は、どちらが正しい解釈と思われるだろうか。ところが、出題が狂っているので正答はここにない。「図書館で子どもがいたずらされるという事件があり、それに委託スタッフが対応できなかった」ということを、氏は、「図書館で子どもがいたずらされるという事件があり、それは委託スタッフが対応できなかったことが原因(・・)である」と、すり替えたのである。事実を歪めて虚像をつくり、氏が作った虚構の不存在を「情報収集の結果」確認したとして、「(委託反対守旧勢力による)プロパガンダにもとづくもの」と非難しているのである。事実の多くはそのままにして、その記述の中にわずかな嘘を入れることで、効果的なプロパガンダを作成する。わずか2文字「原因」を挿入しただけで、虚構の世界を作り上げる。氏の文章の中に、いったい真実はどのくらいあるのだろうか。
ところで、このいたずら事件のあった区では、今年の4月から独立館の5時以降について、委託で巡視を置くようになったとのことである。氏は、いたずら事件がなかったと述べたあと、「言うまでもなく、館内の秩序維持は職員の仕事で、委託できるものではありません。」と続ける。しかし、言うまでもなく、この区は、氏の断定した結論とは反対の結論を下したのである。
4)「不安定な雇用では人の入れ替えが激しく,サービスが低下する」と委託反対論を紹介する。氏は、委託会社のスタッフ募集に8倍の応募があり、図書館で働きたい人が多いと述べ、さらに、雇用形態は「シフト勤務に合わせたパートタイマーですが、それは、自分のライフスタイルと司書としてのスキルの発揮を両立できる形態として、働くご本人が選んでいることなのです」「定着率はむしろ高いのです」と反論する。これは、重要な視点なので、それぞれについて述べておきたい。

 氏は「定着率は高い」と断言している。しかも、不安定からでなく、家庭事情等の変化でやめるのがほとんどで、「名残を惜しんで辞めていきます」と述べていることの真偽である。今年の4月に新たに委託を行った区では、委託会社がスタッフ募集の折込チラシを6月になっても出しつづけている。氏の述べることが事実であれば、文京区は他とはかなり違うことになる。真偽については文京からの反論に委ねる。
 より重要なのは、パート社員の劣悪な労働環境を「働くご本人が選んでいる」として肯定していることである。本人が選んだのだから、劣悪であろうとかまわないというのだろうか。働きに応じてそれに相応しい賃金や待遇をするのは当然のことではないだろうか。委託であっても、パート社員に社会保険に加入できるようにさせることは可能であろう。氏は、別の箇所で、競争入札方式で受託会社を決めたので、競争原理が働き、適正な委託費に収まったと述べている。「適正」という以上、区としての積算根拠があるはずだ。それに照らして、委託会社が委託会社社員に払われるべき賃金を掠め取っている、今の委託が適正なのか。競争原理のしわ寄せは弱者にしわ寄せされる。契約金額の引き下げはパート社員を中心とした委託会社社員の安い時間給をさらに引き下げる。
 しかし、氏はそのことに関心を持たない。これら若い女性を中心としたパート社員がどの程度の給料をもらっているのか、およそ知る必要のないことなのだろう。氏が、パート社員に積極的に働きかけを行っている箇所が、氏論文に1箇所ある。委託開始後、氏は「同じ屋根の下で汗水垂らして働くもの同士、できるだけいい雰囲気を作るように心がけました」と述べ、「『今日は顔色悪いけど疲れてるの?』といった声かけでいいのです」と続ける。氏はこれを「何気ない心配り」で、委託がうまくいくかどうかのカギだと推奨するが、思うに真似をするのは止めたほうが良い。恐らく、氏は、委託問題でギクシャクしている職員との間にもできるだけいい雰囲気を作るために、老若男女を問わず「今日は顔色悪いけど疲れてるの?」などの言葉をかけているのだろうと思う。しかし、委託先社員のみに行っているのだとしたら、セクハラと言われかねない。
5)「委託費は非常勤の賃金より高い。だから、非常勤化をすべき」との反対論に対する氏の「検証」は、6点にわたる「検証」の中で、もっとも、混乱し、つじつまの合わない主張がなされているところである。まず、氏は、「実はこの主張は当局の考え方にやすやすと取り込まれてしまう自己(・・)矛盾(・・)を内包しています。」
(傍点は筆者)と、意味不明の一文を記す。「委託より非常勤化すべき」と主張し、それが実現するのが、どうして自己矛盾なのか、意味が通らない。恐らく、「危険性」あるいは「問題」という言葉の代わりに、自己矛盾という言葉を誤って使ったのであろう。文脈から推測すれば、「委託よりも非常勤化のほうが経費削減になるので、当局に取り込まれる自己矛盾(危険性)がある」ということであろう。当局が、委託でなく、非常勤化を当局が選ぶことを「危険性」があるといっているようだ。ここでの氏の「自己矛盾」の用法は、自己矛盾という言葉を説明する場合の用例としての価値がある。
 続いて、「もっと重大な矛盾は、安い賃金の非常勤職員に職員と同等のあるいはそれ以上の仕事をしてもらっている現実です。(中略)割に合わない-という不満がどこかに鬱積していました」と述べる。それならば、委託会社社員と職員との賃金格差がある。「本当に本が好きで、お客様に奉仕するのが好き」で、「モチベーションの点でもこちらが学ぶべきところが少なくない」パート社員が、不満を鬱積させない理由はない。
 さらに続いて、非常勤化を求めることの無責任さを非難する。「非常勤化を標榜する側は、待遇改善も掲げる」が、法制度上の問題をはじめ、人事・雇用政策上の問題以下を列記して、待遇改善は難しい事柄だ、
と結論づけ、「非常勤化を主張する人々が最後まで自分たちのために、本当に責任を持ってくれるんでしょうか-非常勤職員のそんなつぶやきが今も耳に残っています」と、非常勤職員のつぶやきを紹介する。「つぶやき」は、氏の内にある思いを代弁したものと見るべきだろう。違うのなら、ここに紹介することはないのだから。氏は、非常勤化は、待遇改善の見込みがないから、それを主張するのは無責任だという。では、委託会社のパート社員でいることに将来展望があるのだろうか。若い図書館に熱意を持つ人たちは、パートから非常勤に、非常勤から正規の図書館員へと、チャンスがあれば転職していく。
 氏の述べている責任問題についても、勘違いしているので一言述べておく。委託問題が起きる前から、区当局は非常勤化を進めていた。氏の論理を当てはめれば、当然にこれを無責任だというべきであろう。しかし、区に対して決して言えないだろう。このときに採用された非常勤の待遇改善の責任はどこにあるのか。雇用者である区当局以外にはないだろう。ところが、氏は、非常勤化の主張に対しては無責任だと非難し、非常勤化を実施している相手には何も言えないでいる。
 氏は、委託会社のパート社員については「働くご本人が選んでいることなのです」と述べている。しかも、この非常勤の方は区の非常勤化の政策で採用されたのだから、非常勤化を主張する人たちの責任に帰すことできないのは、氏とて考えれば明らかなはずである。氏の論理からすれば当然に「あなた自身が選んでいることです」と言うべきだったのである。
 このような自己矛盾に陥った原因は、自説を有利に導くために、非常勤化と委託を違う物差しで計ったことにある。それも少し使えば、気づかれないかもしれないものを、余りに多用するので、馬脚を現すのである。
6)「労働者派遣等との関連です」として、合法的な請負契約を行っており、偽装派遣ではない論拠を挙げる。違法性が明らかに見えるような契約を行うはずもないから、現場実態を具体的に見る必要がある。この真偽は、文京の人が検証すべきものであるので触れない。
私が興味を持つのは、指揮監督権についての次のような論述である。氏は、「命令」ではなく、「示唆」や「助言」という「事実行為」までを法は禁止していないと主張する。例示として、「(パート社員が)お客様が待っているところでマゴマゴしていたらご迷惑をかけることになる」ので、「こうした方がいいよ」と声をかければいい、と言う。「こうした方がいいよ」は助言で、「こうしないと大変なことになるよ」は示唆
で、「こうしなさい」は命令ということになる。前2者は合法だが、後者は違法だと言う。こんな珍解釈は始めて聞く。まるで「一休とんち話」ではないか。
続けて、氏は「もしこれがダメなら図書館は機能しないでしょう」と述べる。しかし、現場の図書館員は「これがダメなら機能しない」と言って済ませることはできないので、図書館を機能させるために、違法であることを知りながら違法行為を行わざるを得ない状態に追い詰められる。付けは図書館を切り盛りする職員に回る。

6.文は人なり-「自己讃美」と「委託ダメ論攻撃」と「すり替え」と
 氏の文章表現で、誰でもがすぐに気づくことは2点ある。ひとつは、氏自身の誠実な態度を述べるくだりや他人への心配りに心砕く氏自身の姿を描いた箇所の余りの多さである。「練りこめられたDNA」によって、氏がぬかるんだ道を歩くことになった冒頭から、終章の「名も知らぬ遠き島」に漂着することを防いだK係長への謝辞に至るまで、尽きることなのない自己讃美の波がひたひたと寄せてくる。
 もうひとつは、氏に反対する主張に触れる箇所に、ことごとくマイナスイメージを与える修辞を丹念にほどこしたことである。冒頭第1行の「アウトソーシングが「委託問題」になった瞬間から拳を振り上げ反対する人々が出てくる…」から、終章の「関係者や関係団体は周章狼狽しているようですが」に至るまで、すべての機会を捕らえて練りこめている。これもまた氏に「練りこめられたDNA」のなす技であろう。
そして、氏の主張の論証の仕方はどうであろうか。氏の論理の特徴は、粗雑とすりかえが普遍的かつ自然に存在することにある。すでに、これまで多く述べてきたところだが、更にひとつの事例を紹介する。
第2章「半年間の議論」に、氏は、お客様にアンケートをとり、「開館日・開館時間の拡大」などの要望が多かったことを紹介し、「これらのニーズはやがて実現することになります。」と述べている。そして、氏が図書館長として着任する前から置いてあった「ご意見箱」の利用者の声にもお客様アンケートと同じニーズは長年あったはずだが、図書館員は「悪いのは私じゃなくてほかの誰か」という説明で切り抜けてきたのではないか、と述べる。ここは、先述の氏の文章表現の2つの特徴が見事に表現されている。加えて、うまくすり替えをおこなった箇所でもある。氏は、区民のニーズにこたえサービスの改善をおこなったことを自身の功績に帰している。そして、氏が着任する前、長年区民のニーズを放置し、サービス改善を怠ってきたことを職員の責に帰している。区民の声にこたえて改善をおこなった功が氏に帰するなら、長年区民の声を放置したことの責は氏の前任者たちにあるのは、自明のことである。ところが、責を負うべき彼ら前任者たちはまったく姿を見せない。氏は、氏の論理の帰結として追及することになる前任の図書館長たちの能力の欠如を、すり替えをおこなって職員に転嫁したのである。
そして、この職員への転嫁によって、委託に反対した守旧勢力に仕返しを行い、前任図書館長たちとの関係をうまく処理し、氏論文に氏と同格の人々=前館長たちを登場させることを防ぎ、氏を中心とした世界の秩序を維持したのである。「うまくすり替えをおこなった」との筆者の評はこれに拠る。
このように、無理に無理を重ねたのは、以下の事情にあると考える。
冒頭の章で氏は次のように述べている。「平坦な道を行っても、ぬかるんだ道を歩いても60が定年の公務員人生。藤沢周平さんと郷里を同じくし、「蝉しぐれ」の舞台となった東北の小藩「海坂(うなさか)藩」に生まれ、善し悪しは別として庄内人気質がDNAに練りこまれているらしい私は、後者の道に足を踏み入れたのでした。」(ルビは筆者書)。氏に代わって紹介すれば、「蝉しぐれ」は、庄内藩をイメージして創造された「海坂藩」を舞台に、下級武士牧文四郎の誠実と清貧に生きた半生をすがすがしくノスタルジックに描いた、藤沢周平氏を代表する小説とされている。
氏は、その主人公に自身を仮託したのである。愚直なまでの誠実さをもって生きてきた人間=つまり氏自身が、図書館の責任者となって、藩政改革の大方針の下、直面した図書館カウンターの委託問題を、これまでの人生と同じ誠実さを持って、妨害する守旧勢力を打ち破り、艱難辛苦の末使命を果たすことができた、それを振り返り見て描く、ここに氏の主要テーマがある。そのこと自体は奇妙なことなのだが、そのように全体を読み返せば、この不思議な文章の説明はうまくつく。氏の誠実な人柄と輝かしい業績を記すためには、創作以外に道はない。藤沢周平氏が庄内藩から海坂藩を作った例に習い、文京区の図書館に文京海坂藩を作り、文京海坂藩に起きたことを書いたのである。文京区では起きないことがこの世界では起きる。上官や参謀本部の命令に従って動く前線指揮官は難局を独力で切り開いたイメージにそぐわないので、区長以下も文京海坂藩から追い出されてしまったのである。謂わば「私家版文京蝉しぐれ」である。天地がひっくり返るような大転換とはこのようなことを言うのだろう。

7.最後に
 氏論文に即しながら、反論と感想を述べた。氏は多くのことについて述べているので、触れられなかった点もある。機会があれば、それらについても展開したいと思うが、これで終える。
 図書館のカウンター業務委託は、大きな二つの問題を抱えている。ひとつは、チーフも含む委託会社社員の劣悪な労働環境である。司書としての専門的教育を受け、熱意を持っている人は、将来を考え、より良いポストがあれば変わっていく。図書館サービスの維持という観点からも、パート社員の待遇改善は必要である。このことは繰り返し触れてきたので、これでとどめる。
 ひとつは、図書館職員の問題である。職員は利用者と直接接する機会を失う。23区では、4~5年で職場を変わるから、毎年図書館のことを知らない職員が配属され、知っている職員がいなくなる。新しい職員には、図書館職員としての第1歩となる、資料提供や簡単なレファレンスについての技術・経験の蓄積はできない。専門的なレファレンスや企画調整は、基礎的な技術・経験の蓄積の上に成り立つから、それも当然にできなくなる。委託会社のやっていることも分からなくなる。委託した事業はブラックボックス化する。図書館現場に荒廃が始まる。同じ給料をもらえるのだから、仕事がなければなくても結構だ、ということだ。それは、人事管理の多くをなくした館長にも同じように現れる。すでに、これに直面している図書館の話も聞く。荒廃は、それを日常的に見ている委託会社のパート社員たちにも同じ状態をもたらす。
図書館職場を必死に支えている図書館員がいる間に、図書館を切り回す能力をもつ職員集団を早急に形成しなければ、委託による荒廃、サービスの低下が始まるだろう。


(1)本稿は、『みんなの図書館』2004年9月号に掲載するということで、当会事務局長の池沢が2004年7月に図書館問題研究会に送付した原稿だとのことである。関連して下記のファイルもご参照いただければ幸いである。

公開質問状を図書館問題研究会に出しました
図書館問題研究会常任委員会及び『みんなの図書館』編集部への質問

(2)元になった佐藤直樹氏の論文の書誌事項は下記のとおり。
佐藤直樹「図書館カウンター委託から一年:流れぬ川の堰を開けて」『みんなの図書館』(325), 2004, pp.30-44

2006.01.02

年賀メッセージ

 皆様、新年明けましておめでとうございます。昨年は色々とお世話になりましてありがとうございました。

 あっという間に過ぎ去った2005年も、思えば様々な災難のあった年でした。国の内外を襲った自然災害然り、弱いものを狙う卑劣な犯罪然り、一度負わされた傷はなかなか癒えはしないのだということもまた、然り。ふと、昨年放送終了になったNHK『プロジェクトX』のうち、2005年1月11日放送の「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」、つまり阪神大震災で被災した六甲道駅復興の物語を思い出しました。その番組に出ていた、「完全復興」への思いをこめて、その4文字を記したはっぴを着ながら料理屋を営んでいらした方の姿が頭に浮かんでいました。

 今年こそはよい年でありますように、そのように切に願います。そして、人の生き死にに密接に関わる情報を扱う私たち図書館に関わる者も、しっかりと一歩一歩進んでいければ、そのように願っています。

 本年も色々と課題は目白押しのようですが、どうぞよろしくお願いいたします。

2005.08.01

図書館ネットワークについて(メモ)

 大変旧聞に属する話ではあるが、『朝日新聞』が今年(2005年)2月2日に掲載した「どうなる公立図書館」をめぐって、当会の事務局長の池沢から発言をさせていただいた。その時のログなどを読み返して、ふと思ったことを述べてみたい。

 あの時には、本サイトのほかにも、大勢の方が発言をなさっていた。その中で、『堂々めぐり』というブログでの発言を紹介してみたい。これは管理人の言い換えになってしまうが、委託や指定管理者制度導入が進んだ時、身近な図書館にない資料を「図書館ネットワーク」を通じて提供してもらうという機能はどうなるのだろう、という疑問の提起だったと理解している。大変短いご発言で、引用すると全文引用になってしまうため、このように紹介した。この方の提起した事について、私たち図書館に関わる者はどう答えればよいのだろうか。

 実は、管理人の本業も、とある大学図書館の相互協力業務である。簡単に言えば、相互協力業務というのは、利用者の求める資料が自らの図書館にない場合に、他の図書館の司書とやり取りをして貸していただいたりコピーをしていただいたり、或いは逆のことをする仕事である。

 それぞれの図書館の持つ予算的・物的制約などがあり、単独の館で利用者の要望に全て応えることは不可能である。その場合に登場するのがこの相互協力業務、即ち、図書館同士が協力し合って資料を貸し借りしたり、コピーを送りあったりする事である。

 例えば管理人の身近な例でいえば、ある地域の自然条件や、教育実践などについての文献はないですか?等と聞かれて、関連する地域の県立図書館に文献提供のお願いを差し上げた事があった。昨今はインターネットが発達しており、世界各地の文献の書誌事項がある程度わかるので、海外への文献提供のお願いをすることも多い。「先進国」と呼ばれる国ばかりでなく、全世界とのやり取りである。逆に、地域の公共図書館や学校図書館から文献提供の依頼をお受けする事もある。海外からも依頼をお受けしている。管理人の身近で起こっている事にはこの他にも様々なものがあるが、規模や内容、方法は違うであろうけれども、公共図書館でも多くの館がこの業務を行っているはずである。

 図書館ネットワークはまた、文献提供や情報提供における相互援助のみならず、その中で業務上の情報交換を行ったり、図書館の仕事に携わる人を育てていくためにも欠かせないものである。

 図書館が曲がり角に立たされている昨今、図書館の持つこの「ネットワーク」機能も曲がり角に立たされていると言わざるを得ないであろう。例えば、町田市のウェブ中「都立図書館「協力貸し出し」の見直しによる影響について」によると、都立図書館からの貸し出しには大きな制約がかかってきている。例えば1冊10万円以上の高額資料や、昭和25年以前に刊行された資料等は借り出し不可能になっている。また、東京地区の公立図書館のネットワークにとって永年大きな役割を果たし、『東京都公立図書館職員研究大会報告書』の出版なども続けてこられた東京都公立図書館長協議会が平成16年度をもって解散したことも記しておくべきであろう。

 図書館は、断じてそれぞれの館が単独で活動するだけではその力を十二分に発揮する事は出来ない。例えば利用者がある本を切に読みたいと願っており、その本が大変高価な本であったとして、その本を持っている図書館へいくことがとても困難だとしたら、図書館ネットワークという機能がなかったらその利用者の「読みたい」という希望はかなえられないことになるのだ。このような動きに対して、例えば、多摩地域の図書館をむすび育てる会の皆さんをはじめ様々な方々の取り組みが行われているがまったく同感だと管理人は理解している。図書館の今後のためにも、これから関係者が行う様々な決断が後々に禍根を残すものでないように、管理人は切に願っている。

2005.07.30

司書が平和を願うということ(2)…森住卓写真展「Nuclear Blue 核に蝕まれる地球」に寄せて

 今日は、現在新宿で行われている下記写真展を紹介したい。

    森住卓写真展 「Nuclear Blue-核に蝕まれる地球」
    2005年7月28日(木)~8月2日(火)
    会場:紀伊國屋画廊(紀伊國屋書店新宿本店内)
    下車駅:JR・京王・小田急・地下鉄新宿駅

 今年は第2次世界大戦に日本が敗れてから60年目の節目の年である。1945年8月に、ご承知のとおり2発の原爆が日本で落とされたわけであるが、60年たった今でも、依然として核の脅威におびえる人たちが世界中にいらっしゃる。今回の写真展には、森住さんがそのような方々を撮った写真が出展されている。例えば、核(劣化ウラン弾)が用いられた戦場…イランや旧ユーゴスラビア、など等。出展されている写真からは、水頭症の子どもや、6歳までしか生きられなかった子どもの墓、ガンを手術した傷跡、奇形動物など、核の爪あとが生々しく読み取ることができる。詳しくは森住さんが開設しているサイトをご覧になるとよかろう。

    http://morizumi-pj.mint.cx/nuclearblue.htm

 これは前回の無言館の時にも書いたことと通じるかもしれないが、「核」がどれほど人々の暮らしをえぐったのかを余すところなく写し込んでいた森住さんの写真を目の前にして、社会の中で情報や書物を扱う組織である図書館に身を置く管理人に突きつけられるものがあったような気がする。この写真から何を汲み取らなければならないのか、この社会とは、そして情報とは、図書館とは、そのような問いである。またしても、大切なことを再確認させていただいた写真展であった。

2005.07.10

管理人、入院する

 少々旧聞に属するが、当サイトで、1月に「[資料紹介]『朝日新聞』連載「賢い患者術」」という記事を書かせていただいた。朝日新聞の記事に書かれていたことはかいつまんで言えば次のようなことである。まず、健康を維持していくために、また、病を得た方にとってはよりよい医療と出会うために、いかに情報が大切かと言うこと。また、そのためには図書館等をしっかり活用することが大切なこと。などなど。

 なぜそのことを繰り返したかと言うと、実は管理人自身が入院を余儀なくされ、そのことを痛感したからである。このように書くと、かえってご心配をおかけしてしまったかもしれないが、とりあえず無事退院したのでもう大丈夫である。どのような入院だったかと、内臓の精密検査の関係で一泊の入院だったのである。ただ、生きていることのありがたさを再確認させていただいたことは間違いない。

 今回の入院で感じたことが若干あるので、記してみたい。まず、入院中の情報環境である。医療の面では、大変素晴らしかったのであるが、読者の皆様の中でで入院経験が一度でもある方はお分かりのことと思うが、情報が思うように入らないのである。テレビはカード式で観られ、新聞や週刊誌は売店に行けば売ってはいるのだが、本や雑誌にはなかなかアクセスできないのである。情報の面では一泊入院ですらこの有様であるから、長期入院を余儀なくされた方々はさぞかし大変なことと推察している。病との付き合い方を考えたり、これからの人生を考えたりなどする関係上、病者にとっても情報へのアクセスは大変重要なものなのである。1月の記事で紹介した日本病院患者図書館協会の取り組みもあるが、図書館関係者のなすべきことはまだまだ沢山あるのだと再確認させていただいた。

 もう一点は、『DORAの図書館日報』中の「意外とクール」という記事にも啓発されて考えたことである。この記事の中でDORAさんは、「図書館が必要である所以というのは、情報や資料を求めている人がいたらそれを素早くコーディネートし提供していく」のだと述べ、そのコーディネートや提供のあり方を下記の3つの側面に整理して提起してくださっている。そして、DORAさんはそのようなことを踏まえて、図書館には専門職が必要だと述べてくださっている。今回入院を経験した管理人にとっても大変共感でき、支持したい立論であった。

(1)緊急通報・・・情報が必要となった時に真っ先に尋ねる施設。
(2)予防措置・・・必要と思われる情報をあらかじめ準備し、問題が拡大しないようにするための施設。
(3)情報教育・・・情報へのアプローチを自らができるように教育する仕事。

 20年前、管理人は卒業論文として入院患者への図書館サービスを取り上げた。そのときは、人生経験の少ない若造だった管理人は、入院患者への図書館サービスを知識としては取得したとしても、本当にはそのサービスの重要性を理解できていなかったと思う。その後、ジャーナリストであった千葉敦子さんがガンという病を得、MEDLINE(アメリカの医療情報データベース)を自ら検索して情報を得ながら積極果敢に闘病していた姿に書物の上で接した。また、公共図書館の司書だった知人から、自己破産に関する文献を求められた事例のことを知らされた。そして、今回の入院を通じて、管理人は、「人生と図書館との関わり」を、本当に己の問題として取り組まなければ、と痛感した。生きていることのありがたさを再確認させていただいた今、図書館に関わる多くの方々と共に、一歩一歩進んでいければ、そう願ってやまない。

2005.07.03

2万回御礼

 更新がおろそかになっている間に、アクセスカウンターが2万回をはるかに超えていた。訪ねて下さっている皆さんに感謝申し上げる。

 この間、少々画面を修正してみた。記事が埋もれてしまって肝心なときに見つけることができないというご指摘があったので、カテゴリー別のリンクも設けてみた。お試しいただきたい。

    会のお知らせ(催し物)…本会の催し物に関するニュース
    会のお知らせ(アンケート)…本会の活動のうち、アンケートなど
    ニュース…図書館関係の出来事、他団体紹介等
    コラム…図書館に関わる様々な発言
    資料紹介…図書館に関わる、本や雑誌論文、ウェブサイトの紹介

 今後とも皆さんからのご意見等を「4.もっとよくする会宛メール」宛てに是非お寄せいただけると幸いである。

 それでは、今後ともよろしくお願いします。

2005.04.25

山中湖情報創造館「4つの視点」のこと:山中湖情報創造館副館長 丸山高弘さんへ

山中湖情報創造館「4つの視点」のこと
--山中湖情報創造館副館長 丸山高弘さんへ--

                    (管理人注:2005/05/08著者からの申し出により加筆)

池沢昇(東京の図書館をもっとよくする会事務局長)


 ご意見をいただきありがとうございます。私の書いたのは、2月2日の朝日新聞の報じるところの山中湖情報創造館への疑問であり、同じく小林同館長が述べたとする一文について思うことを即興的に述べたものです。山中湖情報創造館の実際とは異なるものであろうことも承知しています。朝日新聞が流した「民営化で図書館はばら色」を切り崩すには、虚像であろうが、記事が描いた像を対象にせざるをえません。ご容赦ください。
 ふと、朝日新聞を2/26夕刊を見ていたら、「群樹雑倒」と言う文字が目に入り、びっくりしました。これは、評論家の肩書きの方が書いたコラム「寄席」に出てくるものです。「群集雑鬧」(読みは「クンジュザットウ」)の誤りです。これなどは無知をさらけだしただけであり、受験生が間違えた答案を書く程度の害ですむので、大したことではないので